白山神社

【古墳の上にある神社】

守山城跡

白山神社は菊理媛命を祭神として、養老年間(717-723)に加賀の国から勧請されたと伝えられており、前方後円墳の古墳上にあります。 地震や洪水の被害を受けて一時は廃れてしまうのですが、小幡領主山田次郎重忠が中興し、大永寺領主丘座伊勢守、松平清康が再興し、1555年に守山城主織田信次が社殿を建立したとのことから、武将の崇敬が厚かったようです。その後明治時代に濃尾地震で被害を受け、1970年には不審火で社殿は焼失してしまい、現在の社殿は1971年10月に完成したものです。崩壊箇所の土盛工事などを行い、檜の苗を千本植え、現在の境内が形成されました。

【守山白山古墳】

白山神社の下にある古墳は、守山白山古墳と呼ばれています。 境内には津島神社、神明社などがあります。 古墳の足元にある樫水神社から白山神社を見上げると、白山神社が古墳の上にあることがよくわかるでしょう。

【守山崩れ】

この守山城は築城された時代は不明ですが、1526年には連歌師の宗長が訪れ連歌の会が 行われたという記録が残っています。 守山城には、勘違いが歴史を変えてしまったというエピソードがあります。 そのエピソードは1535年の出来事で、「守山崩れ」と呼ばれています、 徳川家康の祖父にあたる松平清康は、三河を統一すると勢力を尾張に拡大しようと、大軍を 率いて守山にやってきました。 しかし当時清康の家臣だった阿部定吉という人物が謀反を企んでいるという噂があり、定吉 は尾張の織田信秀と内通しているといわれていました。 定吉本人も噂を知っており、もし謀反の濡れ衣で自分が殺されたならば、殿に誓書を見せて 潔白を証明してほしいと、息子の弥七郎に誓書を渡していました。 清康軍は守山城へと攻め込んで布陣すると、夜中に馬が暴れだし大騒ぎとなりました。 その騒ぎを自分の父親が謀反の疑いで殺されたものだと勘違いをした弥七郎は、清康を背後 から襲いかかり殺してしまいます。 弥七郎はその場で成敗され、清康を失った松平の軍は三河へと撤退することになります。 この時清康は24歳、跡取りの広忠はまだ9歳で、松平家は弱体化し、逆に尾張の織田軍に 攻められそうになり駿府の今川氏に助けを求めます。 今川氏には人質として、広忠の息子竹千代(徳川家康)が差し出されるのですが、竹千代は 謀略によって織田信秀のもとに幽閉されてしまいます。 もし守山崩れが無かったら三河を統一した松平清康が織田信秀と対決していたかもしれず、 そうなっていたら、歴史は大きく変わっていたことでしょう。

【宝勝寺】

守山城跡に建つ宝勝寺は、守山崩れで命を失った松平清康の霊を弔うために1637年に創建されたもので、清康の位牌が安置されています。